延享3年 (西暦1746年)は今から276年前。干支は寅(とら)年です。
- 1746年のできごと -
- イギリス植民地軍、カナダ遠征。
- フランス軍、マドラス占領(-1749年)
- ジャガイモ(馬鈴薯)から片栗粉とアルコールを精製する方法を発見したスウェーデンの作物栽培学者、エクブラッド伯爵夫人が、自身の研究結果をスウェーデン王立科学アカデミーに報告する。
- ヴィールコヴェ(オデッサ州、現ウクライナ)が建設される。
- 13植民地の一つ、ノースカロライナ植民地の総督であったガブリエル・ジョンストンが、当時植民地で一番大きい街であったニューバーン (ノースカロライナ州)へと移り住む。1792年にローリー (ノースカロライナ州)が新しい州都として建設されるまで、ニューバーン (ノースカロライナ州)はエデントンに代わってノースカロライナ州の州都であった。
- フランスの哲学者で美学者のシャルル・バトーが『芸術基本原則制約論』("Les beaux-arts réduits à un même principe")をパリで出版。史上初めて"les beaux arts"、「純粋芸術」の概念を提唱した。
1月~3月
- 1月8日 - 若僭王チャールズ・エドワード・ステュアートがスターリングを占領。
- 1月17日 - フォルカーク・ミューアの戦い。イギリス政府軍がジャコバイトに敗北。
- 2月1日 - 現在のラージャスターン州に位置するメーワール王国の君主、ジャガト・シング2世が人造湖ピチョーラー湖に浮かぶジャグニワス島に建てたタージレイクパレスの落成式を行う[1]。
- 2月19日
- 当時オーストリア領ネーデルラントの一部であったブリュッセルが、モーリス・ド・サックス将軍率いるフランス軍に降伏する[2]。
- カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスが1745年ジャコバイト蜂起の参加者に恩赦を与える公布を行い、地元の長老派教会に武器を差し出せば処罰を免除されるように指示を出した[3] 。
- 3月10日 - ムガル帝国のラホール総督、ザカリヤ・カーン・バハドゥールが市中のシク教徒の虐殺を命ずる[4]。
4月~6月
- 4月16日 - カロデンの戦い。イギリス本土で起きた1745年ジャコバイト蜂起の最後の会戦となった[5]。

「カロデンの戦い」。火器どころか、武装した兵員が2割にも満たなかったジャコバイト軍に対し、イギリス政府軍は火器、物資、さらにはジャコバイトに反発したハイランド兵も取り込み、準備万端で戦いに望んだ。1745年から1785年頃[6]。伝デイヴィッド・モーリアー筆。
- 4月20日(延享3年2月30日) - 江戸で坪内火事(大火)[7]。宵、戌の刻に築地から出火し、中村座・市村座を焼く。翌日浅草へ飛び火、小塚原で鎮火。
- 5月27日 - 1745年ジャコバイト蜂起を主導したラヴァト卿、キルマーノック伯爵、バルメリノ卿の3人が、イギリス政府によってロンドン塔に収監される。キルマーノック伯爵とバルメリノ卿はその年のうちに、ラヴァト卿は翌年1747年に斬首刑に処された[8]。
- 6月16日 - ピアチェンツァの戦い(オーストリア継承戦争)。リヒテンシュタイン公ヨーゼフ・ヴェンツェル率いるオーストリア軍が、フランス=スペイン連合軍を破る。
- 6月18日 - サミュエル・ジョンソンが『英語辞典』の執筆を請け負う。
- 6月29日 - リッチのカタリナ(1522年生まれ)がベネディクトゥス14世によって列聖。
7月~9月
- 7月3日 - 清が出した禁教令に背き、30年に渡って福州で布教活動をしていたドミニコ修道会のスペイン人宣教師、ホアキン・ロヨ神父が捕らえられる[9]。彼と3人の神父は、2年後の1748年10月28日に獄中で絞首刑に処され殉教。
- 7月9日 - スペイン国王フェリペ5世が、在位45年を経て崩御。長男フェルナンドがフェルナンド6世(スペイン王)として即位。
- 8月1日 - ハイランド・ドレス着用禁止法によって、イギリス政府がスコットランド内でのキルトの着用を禁止。(なお、実際の発効日は1747年同日であった。)
- 8月18日(延享3年7月2日)
- 9月20日 - 1745年ジャコバイト蜂起に失敗したチャールズ・エドワード・ステュアートが、ハイランド西岸に位置するロッホアーバーのアリセグ(Arisaig)村からスカイ島へと逃亡。後年、アリセグ村の東、ナン・ウアム湖(実際には海岸である)のほとりに、この事件を記念して「王子のケアン」が建立された。
10月~12月
- 10月5日(延享3年8月21日) - 三大名作のひとつ、初代竹田出雲らによる浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』が大坂竹本座で初演[7]。
- 10月11日 - オーストリア継承戦争 - ロクールの戦い。モーリス・ド・サックス率いるフランス王国軍が、リエージュ近くのロクールでオーストリア、イギリス、ハノーファー、オランダの連合軍に勝利。
- 10月22日 - エリザベス(ニュージャージー植民地)にプリンストン大学の前身であるニュージャージー大学が開校される。1896年に現在の名前に改称された。
- 10月28日 - ペルー、リマ・カヤオ沖でM8.3の地震[11][12]。
- 11月4日 - カーナティック戦争 - アディヤールの戦い。マドラスからフランス軍を排除しようとしたカルナータカ太守のアンワールッディーン・ハーン率いる1万の軍勢が、パラディ大佐以下フランス東インド会社のフランス兵とセポイを合わせた700人の軍勢によって逆に撃退される[13]。
- 12月5日 - ジェノヴァの青年、ジョバン・バティスタ・ペラッソの投石をきっかけに、ジェノヴァ市民がオーストリア占領軍と軍政長官であったボッタ・アドルノ侯爵に対する反乱が勃発。彼らは12月11日にはジェノヴァからオーストリア軍を追い出したが、数カ月後にふたたび包囲されることとなる[14]。「ジェノヴァ包囲戦 (1747年)」も参照
- 12月27日(延享3年10月25日)- 大岡忠光、将軍徳川家重の御側御用取次となる[7]。